ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館に行ったことはおありですか。どちらも大変素晴らしい、りっぱな資料館です。しかし、そこには「落ちてきた」原爆の悲惨さしか表されていないように感じました。実際は、自然に落ちてきたのではなく、アメリカ軍によって「落とされた」のです。
(悪いのは、そんな無差別大量殺人:ホロコーストを行なったアメリカなのか、それとも天皇制を中心とした国体の維持にこだわって終戦を遅らせた日本なのかといった問題は別問題として)
一方、オキナワの戦争資料館では、はっきりと、アメリカ軍にやられた、日本軍にやられたということが伝わってきました。(資料の中に、「日本軍による島民の虐殺が行われたところ」なんていうのもありましたからね。)
(そういう資料館のあり方に肯定的な人と懐疑的な人はいるようです。また、最近新しい資料館ができました。ある市民運動家は、新しい資料館の考えに反対して、今まで展示されてきた自分の資料を撤去しました。私も実際に触れましたが、それは兵士の水筒で、今も当時のままの水が入っていて、手に取ってふってみると、心に迫ってくるような水音が出る、すばらしい展示物でした。)
怒りや攻撃心は、それ自体が悪いことではありません。正当な怒りや攻撃心が、社会を良くしていくでしょうし、個人の生きがいになることもあるでしょう。
ただ、社会的には正しい怒りや攻撃心が、いつも本人の心の癒しにはプラスになるわけではないとも思います。
潜水艦によるえひめ丸の事故は、日米で大きな広がりを見せています。えひめ丸は自然に沈んだのではなく、潜水艦によって沈められました。
事故後の報道によれば、アメリカ軍のやり方、日本政府の対応の仕方、それぞれに大きな問題があったようです。事実の解明と、それにもとずく適切な処置は、心の癒しにとっても必要不可欠です。
(それだけで癒されるわけではありませんが。たとえば、殺人犯が逮捕され死刑になったからといって、心が癒されるわけではありません。)
日米の問題点が一つ見つかるたびに、行方不明者のご家族は、どれほど心を痛めることでしょう。怒り、悲しみ、悔しさが、わき上がってくるでしょう。
こんなとき、感情を感情を表現することは、心の癒しのためにも大切です。気持ちを表現し、政府や社会に訴えるために、マスコミも協力するとしたら、それはとてもよいことです。
しかし、もしもご家族がマスコミにもみくちゃにされながら、人々が期待しているような「怒りのコメント」を提供し続けなければならないとしたら、それは心の大きな重荷となることでしょう。
昨日の報道によれば、ご家族は一時全員帰国されるそうです。森首相に会うことを希望していらっしゃいます。一昨日の報道によれば、「家族の疲労はピークに達している」そうです。
一般論であり、理想論かもしれませんが。 何かの被害にあわれた方やご家族が、ゆっくりと心を癒すことができ、そのうえで、激しい感情が昇華され社会の改善にも協力できれば、社会にとってもご本人にとっても、素晴らしいことだと思います。
銃で子どもを殺された人が銃規制運動に参加したり。
カルト宗教を脱会した人がマインドコントロールの問題にかかわったり。
子どもを殺人犯に殺された人と、子どもが死刑にされた人が協力しあって、心の癒しとともに死刑反対の社会運動を行なったり(アメリカの例)。
ただし、すべての人にそんなことを期待してはいけないと思います。どんな行動をするかはその人の自由ですし、大きな犠牲も伴うのですから。
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