心理学エッセイ、今日の心理学。最近の話題から、人の心、人間関係の問題に心理学的アプローチ。

 心理学総合案内「こころの散歩道」

心理学エッセイ、今日の心理学、day by day
今日の心理学


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2002年3月28日(木)
● 性非行 


○援助交際という名前の売春をしている少女の中には、「援交して、初めて人にほめられた。人間扱いされて、ほめてもらえた」と語る子達がいます。

 「少しいやなことを我慢していれば、やさしくしてもらえる」と語る少女もいます。

 ある女子学生は、とても傷つくことがあって、心がボロボロになって、何とかしたくて、あっちの男、こっちの男と行っては、体を提供していたそうです。

 もちろん、そんなことをしても、そのときだけやさしくしてもらえるだけで、ますます傷つきます。

 それでも、愛を得るために体を提供する女性は、たくさんいます。

○性に関して厳しいしつけを受けた女の子に限って、グレると性非行に走る子がいます。

 どうすれば、自分の親が傷つくのか、無意識のうちにわかっているのです。

 自分を傷つけ、親を傷つけます。

 でも、それもこれも、本当は愛してほしいからなのですが。

○女性に比べれば、男性は、もっと単純に性欲によって性非行に走っているようにも感じたれます。

 しかし、レイプ犯人は性欲によって犯罪を犯しているのではないとも言われます。

 それは、性欲よりもむしろ、支配欲なのです。

 強くなりたいという思いでしょうか。それも、愛してほしい、認められたいという思いの変形ですが。

*みんな、そんな無理をしないでも、ちゃんと愛されるのに。

HPから本ができました。
『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』主婦の友社から9.28発売!

『なぜ、少年は犯罪に走ったのか』(KKベストセラーズ)書評
『少女はなぜ逃げなかったか:続出する特異犯罪の心理学
(小学館文庫)


2002年2月25日(月)
● オリンピック閉会式 
光と子どもたち

 今、ソルトレークオリンピックの閉会式を見ました。ちょっと感動しました。いろいろあったオリンピックですけどね。長野ほどは盛り上がらなかったオリンピックですけどね。

 私は、オリンピックでは開会式よりも、閉会式の方が好きです。あのリラックスした感じが好きです。

 今回のオリンピックのテーマソングで歌われていたのは、、内なる心の炎を燃やせ。今日の閉会式には、「光」と「子どもたち」がたくさん出てきました。

 光と子どもたち。それは、私たちの希望です。

 私たちの心のは、辛い出来事それ自体のためにつぶされてしまうことはめったにありません。その出来事のために、絶望し、希望を失い、光を見失ったときに、心がつぶれます。

 スポーツ競技では、相手と戦う。激しい戦いの火花を散らす。でも、私たちが感動するのは、単に勝ったからではなく、選手達が心の戦いに勝ったからだと思います。

 メダルが取れなかった選手にも拍手するのは、彼らが心の戦いには勝ったからだと思います。

 私たち普通の市民がオリンピックから学ぶことは、スポーツの専門的なテクニックではありません。

 彼らの内なる光をから学ぶのでしょう。

 私たちが、いつも光の存在を忘れないでいられますように。

 平和の祭典、オリンピックを似終わってのの感想です。

(閉会式の感想は、「ソルトレークオリンピックで学ぶ心理学」のページでもまたあらためてアップします。)


2002年1月17日(木)
● ネットと犯罪 

 今、ある雑誌からインタビューを受けまして。自分で話した内容を忘れないうちに、ちょっと書いておきましょう。

○バスジャック事件とネット(2チャンネル)

 バスジャック事件の犯人は、ネット上で犯行予告をしたが……。

 普通の犯罪は、見つからないようにしますが、犯罪の中には、むしろ目立ちたいと思う「劇場型犯罪」があります。また、少年犯罪全般の特徴として、わざわざ見てくれと言わんばかりの犯罪があります。バスジャック事件は、そういった事件の典型でしょう。

 目立ちたい、注目されたいと思う人にとって、ネットはとても便利な道具です。

○ネットとひきこもり

 バスジャックの犯人もひきこもりのネットユーザーでしたね……。

 ドラマに出てくるような、人間嫌いのパソコンオタクは、実は少数派です。調査によれば、現実世界でもコミュニケーションの豊富な人がネットコミュニケーションも活発に行っています。

 ただ、ひきこもり傾向の人たちにとって、生身の人間と接することはできなくても、ネット上ならできるという例は、たくさんあります。

○ネットによって犯罪は増えているか。

 犯罪の全体数はともかくとして、ネットによる犯罪は増えているでしょう。ネットは犯罪の敷居を低くしたといえます。

○2チャンネルなどネット上で、犯人をことさら侮辱したり、プライベート情報を出してしまうことがあるが……。

 「スケープゴート」の心理でしょう。人にとって、誰かの悪口はある種気持ちのいいものです。犯罪者をスケープゴート(いけにえ)として、みんなでいじめているのでしょう。

 2チャンネルも、有用な情報もあるし、楽しい部分もあるのですから、法に反するようなことをして、自分で自分のクビをしめるようなことはやめて欲しいですね。(まじめになれば良いわけではありませんが)

 私たちは、まだネットというものにそれほどなれていません。2チャンネルを批判するだけではなく、私たち全体が2チャンネルの光と影の両側面から学ぶことは多いと思います。

(この内容はまたまとめなおして後日犯罪心理のページにアップしたいと思います。)




2002年1月11日(金)
● 変化と安定 

 昨日、ある知的障害児者施設の職員研修会に講師としていってきました。

 この施設では、子供時代から障害児の施設内で生活し、さらに併設の障害者の施設で生活して、もう何十年もここで暮らしている人々がいるそうです。

 そういうのはどうなのかと質問されました。

 私にもよくわかりません。

 ただ、精神的に安定するかとは思います。だれにとっても、引越し、転勤、転校、家族メンバーの変化などは、大きなストレスになります。せっかく慣れた場を離れ、もう一度新しい環境で再適応していくのは骨の折れる仕事です。

 高齢者の中には、転居をきっかけにして精神的に不安定になる人もいます。

 その施設で楽しく暮らしているなら、その施設でいつまでも暮らせるのがいいですよね。

 でも、たしかに環境の変化は大きなストレスになるけれども、私たちは、そうして暮らしているのだと思います。

 入学、進学、結婚、就職、転勤。私たちの生活は変化し、再適応を迫られ、苦労しながら生きています。大変です。でも、その大変さの中に、新しい発見もあり、喜びもあります。

 福祉の問題に限らず、安定や安全を重視すべきか、多少のリスクを背負ってでも、変化のある新鮮な体験や自由を重視すべきなのか。どちらでしょうか。

 理想的には、一人一人にちょうどよい「変化」と「安定」があることでしょうが。



2001年12月29日(土)
● 年忘れ 
(思い出の6:3:1)

 今年もいよいよ終わり。昨日28日は、仕事納めで、忘年会の方も多かったことでしょう。さて、今年はどんな一年だったでしょうか。

 良い一年だった人は、何もいうこと無し。良かったですね。

 苦しい一年だった人。悲しい一年だった人。少なくないと思います。人間、いつ病気や事故に襲われるかわかりませんし、世帯主の失業者もはじめて100万人を超えたとか。

 本当に辛い目に合われた方には、気軽に慰めの言葉を差し上げることすらできません。私としてはただ祈るのみです。

 ところで、当サイト内でも以前ご紹介しましたが(記憶の心理学)、人間の思い出は、楽しい思い出、ふつうの思い出、苦しい思い出が、6:3:1の割合であるそうです。

 いろんな人生を歩まれた方がいると思うのですが、でもどの人もだいたい6:3:1になります。

 それは、苦しい思い出も長い年月が経つうちに、だんだんと浄化されていくからです。戦争のときの辛い思い出も、もちろんそれはそれは大変な体験だったのですが、何十年か経つうちに、しだいに辛い思い出の部分が薄れていくようです。

 あんなに悩んだ子育ての苦労も、何十年後かには、懐かしい思い出に変わります。人は、そうして無意識のうちに、記憶を整理しているのかもしれません。楽しい思い出が半分以上になるように。

 今年の辛い出来事も、長い年月の中で、きっと浄化されていくのでしょう。

 2001年が終わり、もうすぐ新しい年、2002年の始まりです。




2001年12月10日(月)
●  命名 「敬宮愛子」 
(としのみや あいこ)




2001年12月7日(金)
● 強い人と弱い人 

 すぐに怒ったり、大声で怒鳴るつける「強い人」。すぐにメソメソしてしまう「弱い人」。弱い人は、強い人をうらやましがったりします。自分も強くなりたいと。

 でも、そんな必要はありません。強い人と弱い人の区別などないのです。

人はみんな弱いのです。

 心の弱さが、ある人の場合には怒りや怒鳴り声として表れ、ある人の場合には悲しみや涙として表れます。同じ弱さの表れの違いがあるだけなのです。

 一見強く見える人は、弱さを自覚できず、あるいは自覚しても強がって隠すことしかできず、一方、見るからに弱い人は弱さを自覚しすぎる人です。

 人はみな弱い。その点では人はみな同じです。

 人はみな弱い。でも、人は弱いときにこそ強い。弱さを自覚し、でもそれを肯定的に受け入れられたとき、人は強くなれるのかもしれません。

 いえ、強くなろうとは思わずに、「自由」になることを目指したほうが良いのかもしれません。弱さへの過剰反応から自由になったとき、本当の意味で人は強くなるのかもしれません。

                   (ポールトゥルニエ『強い人と弱い人』




2001年11月6日(火)
● 合唱 

 毎年恒例の第九の合唱。新潟県内の中学校です(先日、私が出演している番組で取り上げました)。全校生徒600人と町の人たちが協力して、歌います。ドイツ語で、ほぼ、フルコーラス。すごい迫力。

 何十ページにもわたる楽譜、何十分にもわたる合唱。かなり、難しいです。大変です。

 でも、歌い終えたときの感動、達成感。歌い終わった子どもたちは、みんな興奮気味に、言葉では表現しきれないほどの感動をテレビカメラに向かって話します。

 卒業生の参加もあります。インタビューを受けて、第九のすばらしさ合唱の魅力を語ってくれた青年。でもこの青年、髪型や服装を見ると、(失礼ながら)クラシックの良さを語るような雰囲気にはとても思えない人でした。けれども、それだけ第九の合唱の体験はすばらしいものだったのでしょう。

***

 その恒例行事も、今年が最後です。来年度からの公立学校完全週休二日制にともなって、練習時間が取れなくなるからです。

 生徒一人一人のすばらしい体験、行事としての教育効果の高さを考えると、残念でなりません。

***

 合唱自体を取りやめるわけではないそうです。来年度はもう少しやさしい曲を選んで、合唱を行うそうです。

卒業生、市民の参加については、まだ結論は出ていません。


2001年11月6日(火)
● コーディネーター・ママ 

 今、全国の小学校で、来春1年生になる子ども達の小学前検診が行われています。ニコニコ笑顔で、うきうきと、子ども達がお母さんやお父さんに連れられてやってきます。

 児童の保護者全員が集まる数少ない機会です。そこで、文部科学省はこの機会にぜひ入学前の親御さんに家庭教育の大切さについて考えてもらいたいと思い、子どもが検診を受けている間に各小学校で講演を開くことを企画しました。

 今年からスタートの事業ですので、手探り状態です。まだ一部の学校でしか実施されています。実は私も、昨日地元の某市立小学校へ行って来ました。

 まあ、私のことですから、楽〜しく話してきました。

 家庭「教育」といっても、学校の教育とは異なります。家庭ではむしろ子どもをリラックスさせ、安心させることが必要です。学校は楽しいところだけど、行けば大変な部分もある。悪い成績を取ってくることもある。

 そんなとき、せめて親は子どもを信じてあげなくちゃ。

 そして、親にとっての大切な役割は、子どものために「コーディネーター」になることです。まじめなお母さんは、特に自分ひとりで責任を負おうとします。でも、無理です。一人で子育てできません。

 みんなで、子どもを育てていきましょうよ。もちろん、親は自分の子を誰よりも愛しています。特にお母さんは一生懸命です。時々一生懸命すぎてから回りすることがあります。

 自分以外の周囲の人たちの愛や努力がとても不十分に感じることがあります。精神的に追い詰められると、ますます自分だけで問題を抱えてしまいます。

 でも、周りの人は敵ではあありません。みんな見方ですよ。みんな、子どもの幸せを願っていますよ。親から見れば、不十分かもしれないし、意見が違うこともあるでしょう。でも、みんな子どものために活用できる味方です。

 家族も、教師も、医師も、保健婦も、みんな活用できる味方です。子どものためにどの人をどう活用するか、その活用のしかた、コーディネートをするのが親の役割です。

 子供の歯が痛いときには、歯医者に連れて行くでしょ。そういうふうに、周囲の人間を活用しましょう。そうして、一人だけで苦しまずに、みんなで私たちの大切な子どもを育てていきましょうよ。





2001年10月12日(金)
● 宝探し 

 子どものことで悩んでいるお母さんと話をしていて、思いました。

どうすれば問題が解決するか、何をすればいいか。わかりません。
いろいろとアイデアを出してみるだけです。

あれはどうかな、これはどうかな。

無視されたり、だめだったときはすぐに引き下がればいい。

(深追いすると、関係がこじれます。しつこくしたり、正論を吐きすぎたりすると、子どもはプライドを傷つけられます。)

あれこれいろいろやってみる。

まるで釣りを楽しんでいるみたい。

えさを変えたり、場所を変えたり。
食いついてくれれば、めっけもの。

釣りの好きな人は、これを楽しんでいますよね。
釣れないって悲観的になって泣いたりしません。
工夫を凝らし、釣りの醍醐味を楽しみます。

あちこちいろいろ探してみる。

まるで宝さがしみたい。
その子の悩みを和らげ、能力を引き出す、きっかけ探し。
宝さがし。これって楽しいよ。

釣れなくても、、宝が見つからないとしても、
ただの現状維持。悪くはならない。最悪が、現状維持。
上手く見つかれば、ばんばんざい。

宝さがし。宝さがし。
きっと見つかる。





2001年10月12日(金)
● 親バカ 

 発明王エジソンは、小学校に入ってすぐに、こんな頭の悪い生徒は見たことないと教師から文句を言われます。それを聞いた母親は、それなら自宅で勉強させるといって学校を辞めさせます。誰に悪口を言われても、エジソンの母親は子どもを信じていたのです。

 世間はいろいろ言うかもしれないけど、せめて親ぐらい子どもを信じてあげなくちゃね。この子が将来どうなるのか、客観的にはわからないけれど、きっと立派な人になるって、誰かが信じてあげなくちゃ。

 ノーベル化学賞をとった野依先生も、子どものころは、べつに秀才というわけではなかったようです。大学に入ってからも、特別に優秀というわけではなかったようです。ただ、「実験の虫」だったとか。

 今回ノーベル賞をもらった研究テーマは、先生が助手のころから手がけていたテーマでした。研究者にとって、自分の研究テーマは、自分の子どものようなものです。

 将来とても価値ある研究になったものでも、最初はみんなから無視されるようなテーマだったものもたくさんあります。企業内のプロジェクトもそうですよね。

 最初は評価されなくても、でも、そのテーマを愛し、コツコツと研究を続け、一生懸命みんなにアピールして、そして、花が咲くんだなあ。
(ま、運もあるけど)(ま、運も実力のうち)



2001年10月5日(金)
● 家庭を第一にはしない 

 善良でまじめな人ほど、家庭を守ろうとします。しかし、家庭を第一に考えてはいけません。大切なのは、家庭を守ることではなく、家族一人一人の幸せです。

家族のメンバーの幸せを犠牲にして、家庭を維持しようなどと考えてはいけません。家庭のための人ではなく、人のための家庭です。

 親は子の幸せをきっと願っているはずです。子は親の幸せをきっと願っているはずです。夫は妻の、妻は夫の幸せをきっと願っているはずです。

だから、一人一人が幸せになる、その結果、すばらしい家庭になるのです。

 家(イエ)を守るなどというのは、本来なら100年も前の発想ですが、現代でも少し形を変えて家庭第一と思ってしまう人々がいます。そのために家族の誰かにプレッシャーをかけている人もいますし、自分自身にプレッシャーをかけて、苦しんでいる人もいます。

 確かに、家庭は大切です。家庭のためにがんばるのも、もちろん良いことです。しかし、本当に大切なのは、家族のメンバーひとりひとりの幸せなのです。

『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』の第7章「家庭から犯罪者を出さないために」14節「家庭を第一にしない」もお読みいただければ幸いです。




2001年9月30日(日)
● 子ども達に舞台を 

 先日、加藤剛の舞台「コルチャック先生」を観てきました。

1 大切なのは、子ども達の未来だ

 コルチャック先生は、児童文学者、小児科医、孤児院の院長、そしてユダヤ人。第二次世界大戦中に子供たちをまもり、子ども達とともにガス室で命を落とします。

 芝居の中のきめのセリフが、これ「大切なのは子ども達の未来だ」。いろんな場面に使えそうな言葉です。経済政策を考えるときにも、国際政治を考えるときにも、これが、子ども達の未来にとってよいことかどうか。

2 子ども達に舞台を

 芝居にはたくさんの子ども達が登場します。役名があり、セリフがある子ども達はともかくとして、役名もセリフもない「こどもたち」も芝居の最後のほうに短い時間ですが、たくさん登場してきます。

 この芝居は、各地で上演されますが、「こどもたち」は上演する各地方で選ばれます。ほんのちょい役ですが、でも、子ども達の眼は輝いていました。

 そういうシーンなので、そういう演技指導がされるのでしょうが、別段そんなに芸達者な子ども達ではありません。子ども達は、本当にかがやいていました。
 舞台って、魅力的なんですよねえ。(私、小中高と演劇部でした)

 舞台に登ると、まぶしいスポットライトに照らされ、すーと上までつながる客席が見えて、自分が注目されている、拍手を受けているとと強く感じます。鳥肌が立つような勘当です。主役じゃなくたって、いいんです。今ぼくは、たしかにこの舞台に立っている。その実感で十分なんです。

 子ども達みんなに「舞台」を与えたい。

 活躍できる、注目される、温かい拍手に包まれる。その子なりの舞台を与えたい。心地よい緊張感と興奮、達成感。子ども達みんなが、そんな舞台を持っていたら、どんなによいでしょう。



2001年9月4日(火)
● 歌舞伎町ビル火災から考える 
命を守るための災害心理学

 当サイト内で、「歌舞伎町ビル火災から考える命を守るための災害心理学」をアップしました。

 災害時のパニック状態や犠牲には、物理的な原因もあります。狭い通路に大勢の人が押し込まれれば、自分の力では動くことができず、つぶされてしまう人もいます。

 ある時間内にある数の人々を出口から出すためには、どのくらいの幅の出口が必要かは、計算することができます。災害による犠牲者を防止するためには、まず避難路の確保など、物理的な環境を整える必要があります。

 しかし、災害現場では、物理的には整っているときにさえ、被害者が出てしまうことがあります。開くはずの扉の前に何人ものひとびとが重なり合って死んでいることすらあります。救命具があったのに、使われないまま犠牲者が出てしまうこともあります。

 生き残るためには、物理的な環境を整えると同時に、一人一人の心を整える必要があります。冷静になること。慌てないこと。

 そのためのとてもよい方法の一つが、「人のことも考える」ことです。逆説的ですが、自分だけ助かろうとするよりも、弱者へのいたわりの思いをもったほうが、冷静になれて、助かることもあるのです。

 緊急時に、そんな思いやりを持てる人はすばらしいと思います。

 緊急時ですから、そんな思いやりをもてなくても、責めることはできないとも思いますが。

「歌舞伎町ビル火災から考える命を守るための災害心理学



2001年9月3日(月)
● すくすく子育て、どたばた子育て 

 すくすく子育て、そうですよね、親ならば誰だって、すくすくと子どもが育ってほしいと望みます。でも実際は、毎日どたばたの連続です。どこの家でもそうでしょう。そいうものです。子どもって、そういうものです。

 小さなうちはよく病気にもなるし、けがだってしょっちゅうする。もっとおおきくなれば、親に悪態をつくこともあるでしょうし、友人関係や勉強のことなど、悩みの種はつきません。

 でも、たぶん、そのどたばたの中で、子どもは育っていくのでしょう。そのどたばたの中で、私たちも育っていくのでしょう。どたばたを通して、家庭も育っていくのでしょう。

 トラブルはない方が良いかもしれません。トラブルがもとで、家族の人間関係にひびが入ることもあるかもしれません。心も体も苦しいかもしれません。でも、わたしたちの家庭に、そのトラブルに耐える力があれば、トラブルが私たちを成長させてくれるでしょう。

 苦しみの真っ最中は、だれだってそんな余裕はありませんが、みんなで協力しあえれば、きっと困難を乗り越えることができると思います。そしてあとになれば、すっかり忘れてしまったり、よい思い出にさえなるでしょう。

 子どもは小さな病気になることを繰り返しながら、強い体になっていきます。友達とぶつかりながら、人間関係を学んでいきます。子も親も、どたばたしながら、そうやって、子どもはすくすくと育っていくのでしょう。



2001年8月28日(火)
● 殺人者から身を守る方法 

 先日、世田谷で警察官が男に刺し殺されました。この事件を受けて、今日ある雑誌の記者さんから、刃物を突きつけられたときに殺人者から身を守る方法についてのインタビューを受けました。

 う〜ん。そんなこといわれてもねえ、そういう質問なら、格闘技の先生の方がわかるかもしれませんねえ。でも、本格的に護身術を身に付けるならともかく、少しぐらい方法を聞いても、刃物を持った犯人とそう簡単に戦えるとは思えません。

 自分に向かって突進してくるダンプカーをひらりとよけて、交友事故に遭わない方法なんて、簡単に身につくわけはありません。(日ごろから体を鍛えて、反射神経を鋭くしておくことはとても意味があるとは思いますが。)

 交通事故を防ぐには、そんなスタントマンのような訓練よりは、右左をよく確認しようといった教育の方が現実的だと思います。

 そんなことを話しながら、それでも、人間関係を良くして犯罪被害の発生を予防するという意味で、こんなことを話しました。

1 直感を信じる。君子危うきに近づかず。
2 はっきりと「ノー」という。ずるずると関係を続けない。
3 怖がり過ぎない。下手に怖がっていることが相手にわかってしまうと逆効果。
4 相手をばかにしない。プライドを尊重する。相手にも逃げ場を用意しておく。
5 コミュニケーションを大事にする。

 相手が刃物で刺してくる前に、すべきことがあると思います。




2001年8月24日(金)
● 千と千尋の神隠し 
へちゃむくれの千尋は、なぜ輝き始めたか

 この夏一番のヒット作「千と千尋の神隠し」。主人公の女の子、千尋はどこにでもいる普通の女の子。特別な能力はなし。家庭は中流。両親も、虐待するわけでもなし、特別すばらしいわけでもなし。普通の両親。

 どこにでもある普通の家の、どこにでもいる普通の、やる気のない女の子。引越しして、転校するのが気に食わなくて、ご機嫌斜めのへちゃむくれ。

 その主人公が、ストーリーが進むにつれて、変わっていく。目がキラキラと輝きだす。

 ポイントは、人のために何かをすること。

 両親を助けるため、一生懸命はたらく。大好きな仲間を助けるために、冒険に挑む。そんな体験が彼女を変える。

 子ども達は、昔も今も、そんなに変わらないと思います。どこ子どもも、すばらしい力をもっています。変わったのは、環境です。心の力や、体の力を発揮するチャンスが減ってしまったのです。

 昔、経済大恐慌が起こったとき、貧しくなった家庭の子ども達はぐれてしまったかというと、むしろ反対に、 すばらしい子ども達が育っていきました。この家庭の危機を何とかがんばって切り抜けようと、子どもながらに思ったのでしょう。

 「何か面白いことはないかなあ?」 満ち足りているはずの現代社会で、多くに人たちが思っています。だらだらと、娯楽を求めているだけの人もいるでしょう。

 でも、本当の楽しさは、きっと人から必要とされ、人のために何かをするところにあるのだと思います。

「健康な人とは、愛することと、働くことのできる人である」(フロイト)





2001年7月12日(木)
● 偏見3 

 「偏見」とは、その当人のことを見ないで、その人が「何かに属している」(たとえば、女、黒人、アメリカ人、障害者、イスラム教徒)という理由だけで、その人に対して持ってしまう偏った否定的な思いのことです。その考えに基づいて行動に移せば、それが「差別」です。

 その人個人の特徴を良く見て(偏見に惑わされず)、その人を評価、判断するのは、「区別」であって、差別ではありません。

 私たちは、いろいろな人と出会う中で、誰か一人を区別して、結婚相手として選ぶでしょう。就職試験の試験官も、その職業に求められる特徴を受験生が持っているかどうかを判断し他の受験生と区別して、合格者を選ぶでしょう。

 偏見差別は許されませんが、公正な競争や区別はゆるされます。動物はより良いパートナーを本能的に区別し、選んでいるのでしょう。人間は、様々な歴史と、複雑になった頭脳のゆえに「偏見」を持つようになったのかもしれません。

 (差別はダメ、区別は良いと言っても、偏見差別は、している側は気づかないことが多いので、ただの区別のつもりが偏見による差別になっていることもあるでしょう。そういうときには、それが差別だと気づいた人に教えてもらえばよいと思います。)

 現代人にとって、(本能と言うわけではないが)自然に感じてしまう偏見はたくさんあると思います。それは自然なことだから許されるのかと言うと、それは違うと思います。

 自然なことでもいけないことがあると私たちは考えます。腹が立てば殴りたくなるのは、とても自然な感情ですが、だからと言ってやたらと人のことを殴ってはいけないと、私たちは考えています。

 も含めて、みんなが偏見差別を持っています。でも、少しでも減らしていくべきだと思います




2001年7月7日(土)
● 偏見2: 科学的事実? 

 たいていの偏見は、本人は事実だと思っていますが、事実ではありません。たとえば、黒人はくさいといっていた白人達がいました。そこで、目隠しをして、いろいろな人種の人を前に立たせました。その結果、黒人が特にくさいと感じられることはありませんでした。

 思い込みではなく、科学的裏づけがある場合もあります。この方が厄介ですね。偏見ではなく、事実だとより強く感じてしまいます。

 たとえば、女性より、男性の方が、知能指数が高いという研究結果を見る。すると、女は知能が低い、という偏見を持ってしまう。

 実際は、研究方法上の問題もありますし(つまり反論もある)、また違いといってもごくわずかな違いでしかありません。それより何より、データを良く見ればわかるのですが、男女差などよりも、個人差の方がずっと大きいのです。

 男女の身長の高さは明らかに男女で大きな違いがあります。さて、身長の高い人求む、という求人があったとします。そこに、身長160センチの男性が行ったら、男性なので採用。身長170センチの女性が行ったら、女性だという理由で不採用。理由は、「男は女よりも背が高いという事実に基づく!」

 こんなことになったら、男女差別(偏見に基づく行動)だと大騒ぎになるでしょう。個人を見ないで、女だから(女というグループに所属するから)ダメ、というのを「偏見」といいます。

 男の平均身長は女の平均身長より高いという事実から、(すべての)男は、(すべての)女より身長が高いという間違った考えを引き出してしまうことがあります。

 身長は見ただけでわかるからこんなことにはなりませんが、もっと微妙なことになると、こういう偏見、間違いを、私たちはしてしまいます。
 まあ、たしかに、高身長の人が欲しいとき、最初から女性を排除し、男性だけすれば、効率的な求人ができるかもしれませんが、それはもちろん許されることではありません。





2001年7月3日(火)
● 偏見 

 あなたは、精神障害者に対する偏見を持っていますか?
持っていない?

それでは、あなたの隣りの家に精神分裂病で通院中の人が引越してくることになりました。どう思いますか?

あなたの妹が、精神病で通院歴のある人と結婚することになりました。
どう思いますか。?

こういうことに対して、いやだ、反対だとお感じなら、それが偏見です。偏見とは、あるグループに所属しているという理由だけで、その人に対して持つ否定的な態度です。

 ある国で、日本人による犯罪が連続したとします。あなたがその国に行ったら、日本人であると言う理由だけで、税関で特別に時間をかけて調べられました。タクシーに乗ろうとしたら、乗車拒否にあいました。レストランにも入れてもらえません。アパートを借りようとしたら、日本人だと言う理由だけで断られました。新しい法律ができて、外国人の中でも、日本人にだけ様々な制限が加えられました。

 もしもこんなことになったら、それは日本人への偏見であり、偏見に基づく差別が行われたことになります。

 実際には、日本人にもいろんな人がいます。同様に、精神障害者にもいろんな人がいます。その人自身が乱暴をするなど悪い人であれば、制限を受けても当然です。

 しかし、いろいろな人がいるという個人差を無視して、日本人だから、精神障害者だから、男だから、女だからと言う理由だけで、その人を否定的に見てしまえば、それは偏見です。

 偏見を持っているとき、私たちはそれに気がつきません。たとえば、女は感情的だと思い込んでいるひとは、それが偏見だとは気づいてていません。事実だと思っているのです。

 人はみな弱く、自分では気が付かないうちに、偏見を持ってしまっているのです。



2001年6月9日(金)
● 包丁男小学校乱入事件の犯罪心理 
ニュース23への投稿

 当サイト内に、包丁男小学校乱入殺傷事件の犯罪心理をアップしました。

下記は、この事件に関して投稿したものです。

ニュース23御中

いつも楽しく拝見しております。

さて、本日の小学校乱入事件ですが、他の多くの番組を見ていて、同校の生徒にインタービューをしている点がとても気になっていました。

しかし、ニュース23では、発言している子どもの顔を隠していたことに、番組としても見識を感じました。(本当は、子どもへの取材自体しないほうが望ましいとは思うのですが、番組制作上、やはりどうしてもはずせないものでしょうか)

番組中のコメントも安心して聞ける内容でしたし、他の番組とは異なり、不用意に被害者のプライベート情報を出しすぎない点も、良いことだと感じました。

ところで、今回の事件と膨大は報道によって、事件の舞台となった学校だけではなく、日本中で、不安を感じている子どもや親がいることと思います。

もちろん、事件を客観的に伝え、類似事件の再発を防ぐことは重要です。番組としての「面白さ」も無視できるものではありません。しかし、ことさら視聴者を不安がらせるような報道は慎むべきだと思います。(貴番組は、十分配慮しているようには思いますけれども)

たとえば、上空から見た、子どもたちが小走りで校庭に集まるシーンは、映像としてとても良いものだとは思いますが、同時に、不安を高める映像だとも感じました。

一方、子どもが制服警官に抱きかかえられているシーンは、子どもに安心感を与える可能性のある映像だと感じました。

事件の悲惨さはもちろん伝えるべきでしょうが、それとともに、冷静に事件について考えることができ、そして、不安がっている子どもや親たちに安心感を与え、希望を与えるような報道を、今後とも期待しております。

包丁男小学校乱入殺傷事件の犯罪心理




2001年6月6日(水)
● 「うつ」と「虐待」と、「ほどよい母」 

今日の報道によると、「うつ状態」にある母親ほど、子供を虐待する割合が高いそうです。「うつ」は、現代病といえるほど流行っています。今回の調査では、一般の母親の1割に「うつ状態」が見られ、子供を虐待している母親では、3割が「うつ状態」にありました。

うつになると自分が無力で小さく思えます。一方、目の前の問題はとても大きく見えます。もともとうつになる人はまじめな人が多いのですが、うつのために子育てや家事がうまくいかなくなると、ますます自分を責めて、ストレスがたまります。

 そのたまったストレスが爆発すると、子供への虐待となるのでしょう。そして、子どもにひどいことをしてしまったと、さらに自己嫌悪に陥り、悪循環から抜けられなくなってしまいます。

 さて、大切なことは、自分をいたわることです。疲れがたまると、うつ状態は悪化します。無理はいけません。完璧な母親なんかを目指す必要はありません。理想の母になんかなれなくてもOK! 大丈夫、大丈夫、子育てなんか多少手を抜いても、子どもはしっかり育つものです。

そんないい加減には考えられませんか? もちろん、あなたが元気になれるのが一番いいでしょう。感情には波があります。今は悪くても、またきっと良くなります。うつはいずれ去っていきます。

 必要があれば、病院で薬をもらいましょう。よく効く薬もあります。あなたが早く良くなるために、今はゆっくりじっくり休みましょう。きっと良くなっていきます。


「理想の母」などを目指すと、良いことはありません。「良い母」を目指すのも、場合によりけりです。一番良いのは、「ほどよい母」です。あなたの健康のためにも、より良い親子関係、より良い子育てのためにも、適度なほどよさが一番です。(「完璧な親」なんて、子どもから見たら息が詰まっちゃうでしょ)

子どもに対して、やさしいときもある、怖いときもある。時間をかけて料理をすることもあれば、手を抜くこともある、しょっちゅう失敗する。子どもが大好きだけど、時には憎たらしく思うときもある。

みんな、そんなものです。そして、そんな「ほどよい母」が、結局は一番良いのです。




2001年6月4日(月)
● 私は私が嫌いです。 

私は私が嫌いです。

私は、ルックスも良くないし、頭も悪い。性格も暗いし、面白いことも言えない。特技なんか何にもない。みんなの足手まといになってばかり。こんな私は、私のことが嫌いです。私なんか、いなくなった方がいい。私は、誰にも必要とされていいない。

そういうふうに、ずっと思ってきました。でも、そうじゃなかった。私のことを必要としてくれる人もいる。心配してくれる人もいる。仲間として、友達として、認めてくれる人がいる。はじめて、知りました。

もっとみんなと話したい。みんなと一緒にいられて、うれしい。今まで、自分で自分自身のことを傷つけていたのかもしれない。人は人の中で傷つくけれど、人は人の中で癒されていくのかもしれない。

***

先日、ある学校の学生さんたちと、宿泊研修に行ってきました。「構成的エンカウンターグループ」の手法を使って、自分を知り、人を知り、人間関係について、体験的に学ぶための合宿です。

合宿の最後に、「私」というタイトルで、短い作文を書いてもらいました。それをそのまま公開はできませんので、ある人の実際の作文をもとにして、私が創作したのが、上の文章です。

ほんの小さなきっかけで、若者たちは大きく変わります。青年たちの力はたいしたものです。

ところで、自分のことが嫌いだという人はけっこう大勢いるのですが、そういう人たちに実際に会ってみると、たいていの場合、人から嫌われるどころか、人間的な魅力にあふれている人が多いように思います。

上の作文を書いた人のことを想像して、どうですか? いやな人だと感じますか? そんなことないですよね。むしろ、とってもいい人で、友達になりたいって、思いません?



2001年5月22日(月)
● トラブルメイカーとあなた 

 世の中には、変な人がいるものです。まあ、あなたとただ馬が合わないだけという場合もあるでしょうが、心理学的に言って神経症的であったり、人格のゆがみが大きい人もいるでしょう。

 こういう人たちも、成績の良い人もいれば、調子の良いときには、良い人、魅力的な人に見えるときもあります。あなたの職場や学校にも入ってくるでしょう。お客さんとしてやってくるかもしれません。

 こういう人たちは、何かのきっかけで、大きなトラブルメイカーになります。巻き込まれた人たちは大変です。この人のおかげで、あらぬ疑いをかけられたり、信用をなくすこともあるかもしれません。どうしましょう。

 こういう人たちと面と向かって争っても、あまり良いことはありません。大切なのは、相手を理解すること。相手の言動をあまり真に受けてはいけません。

 その人が、あまりに理不尽にひどいことをしてくるのは、あなたが悪いためではなく、その人の心に問題があるからです。

 あなたは、良くがんばってきましたよ。でも、かなり賢明な人であっても、こんな人とかかわると、トラブルに巻き込まれてしまうのは、ある程度仕方がありません。

 変な人とでも人間関係を良くするコツは、「愛しなさい、でも、カモになるな」

 今のあなたが不十分だなどと申し上げる気はありません。あなたの心身がつぶされてしまわないように、どうぞ、心も身体もお大事に。自分を責めたり、悩みに押しつぶされないように、自分をいたわってあげましょう。

 適切な弁明が必要なときもあります。しかし、あくまで冷静に。大丈夫、わかってくれる人はいます。わかってくれる人を探しましょう。あなたが心の健康を失ってしまったら、さらに問題はこじれます。

 努力は必要です。でも、休むことも必要。あなたは、こんなにがんばっているのですから。



2001年5月12日(土)
● 希望の法廷:地域で向き合う少年犯罪 

昨日、、BS1でこの番組を見ました。
5.11.22:00〜

希望の法廷〜米・地域で向き合う少年犯罪
 −ウイークエンドスペシャル−
 ▽裁く場ではなく更生を目指す場としての法廷


数年前に、高校で銃乱射事件の起きた地域です。犯人の少年は親を射殺し、何十人もの生徒と教師を銃で撃ち、終身刑となりました。

この世界を震撼させた少年凶悪事件のあと、新しいシステムと施設を作りました。地域のその勇気はすばらしいと思います。

日本の家庭裁判所と児童相談所と児童自立支援施設(教護院)と鑑別所を一緒にしたような場所で、比較的罪の軽い、麻薬がらみの少年少女が対象です。

「法廷」といっても、裁くためのものではなく、定期的にやって来て、更正のための指導を受ける場です。

ここでは、厳罰ではなく「肯定的アプローチが」が使われます。厳しい規律もありますが、少年たちにあえて屈辱感を味あわせるようなことはありません。

親に対する教育やカウンセリングも行われます。犯罪少年の下の兄弟たちに対する犯罪予防のための早期教育的な援助も行われます。

裁判官やソーシャルワーカー、カウンセラー、保護観察官らが、少年一人一人のためにミーティングを行います。(この裁判官、短パンをはいて少年とバスケットをいていました)

少年たちに「仲間がいる」こと、「将来には希望がある」ことを教えたいと語っていました。私自身、この言葉を聞く前に、番組を見ていてそう感じました。

日本の少年犯罪にどの程度の処罰を与えるかは、様々な意見があるでしょう。しかし、いずれにせよ、少年たちに、将来に希望がある、助けてくれる仲間(友人や大人たち)がいるという思いを与えることは不可欠だと思うのです。そして、その少年と家族を地域が支えます。

そこから、更正の道が始まるのではないでしょうか。
(掲示板への書き込みの再掲載)




2001年4月27日(金)
● 信用しない、でも、信頼する。 

 ある野球評論家が言っていました。キャッチャーはピッチャーを「信用」してはいけない。キャッチャーがミットを構えたところ必ず投げてくれると、下手にピッチャーを信用してしまうと、ひどい目にあうというのです。

 どんなすごいピッチャーだって、球ひとつ分コースが狂うことはよくあります。とんでもない失投をすることもあるでしょう。そういう可能性を考えながら、キャッチャーはピッチャーをリードしなくてはなりません。

 でも、だからといって、ピッチャーを「信頼」しないのでは、やはり良いリードはできません。「あ〜あ、あのピッチャー、どうせまた打たれちゃうんだろうなあ」なんて思っていると、その不安がピッチャーに伝わり、ほんとに打たれてしまいます。

 「あいつなら、このピンチもなんとか抑えてくれるぞ」という信頼感があってはじめて、ピッチャーも自信を持って良いピッチングが行えるのです。

 私は思います。人は弱い。つい悪いことをしてしまう。失敗することはたくさんある。簡単に人を信用することはできない。でも、人への信頼感を失ってしまったら、やっぱり人は幸せになれないと思うのです。

 友人の教師が言っていました。俺はすごい悪賢い連中を相手にしている。ぼんやりしていたらだまされる。生徒になめられてはいけない。しかし、それでもなお、生徒を信頼することが俺の仕事だ。

 「ヘビのように賢く、ハトのように素直であれ」(聖書)
簡単に人を信用したりしない、でも、人を信頼することを忘れはしない。




2001年4月19日(木)
● 効果的な方法を 

 勉強しない子がいる。「勉強しろ!」という。でも、全然勉強しない。そこで、もっと「勉強しろ」と言いつづける。それでも勉強しない。言うほうも疲れてしまいます。言われるほうはもっとうんざり。

 やっても効果のないことはやめましょう。何が効果的な方法かは、なかなかわからないことも多いのですが、経験的にこれはだめだなと思うものはあります。それでも人間はついムキになってしまい、簡単には方法を変えないのですが。

 お説教が効果的ならば、説教をすればよいのです。しかし説教しても何も変わらないとしたら、他の方法を考えましょうよ。

 私たちは、「〜すべき」という考えにとらわれがちです。だから自分の方法を変えることができません。でも、「べき」よりも、「何が効果的か」を考えたほうが、誰にとっても良いはずです。

 しかることが必要なときもあります。しつけや指導が必要なときもあります。しかし、そのどれでも効果のあがらないこともあるのです。

 強い北風を吹きつけることが効果的ならどんどん風を起こせばよいでしょう。でも、暖かな太陽の光のほうが実は効果的ならば、ぽかぽか暖めてあげましょうよ。


2001年4月13日(金)
● チャレンジャーだね 

 『五体不満足』で有名な乙武さんが相撲の曙を訪問したときに言われた言葉。「そうか、君は、チャレンジャーなんだね。」

 乙武さんがもし偉いとするなら、それは、重い障害があるのにがんばっているからではなく、大きな問題にチャレンジしているからだと思います。(曙の言った表現は本当にすばらしいと思います)

 そういう意味で、曙もチャレンジャーです。まったく違う文化に飛び込んで、がんばってきました。

 障害者だから、プロ選手だから賞賛されるのではなく、彼らがチャレンジャーだからこそ賞賛されるべきだと思います。

 有名なスポーツ選手は、成果が顕著に現れているし、障害者の場合は障害の存在が目立つので、特に賞賛されやすいのですが、彼らだけが特別なのではありません。もっと目立たなくても、また世間的な成果は上がっていないとしても、大きな困難に立ち向かっている人は、チャレンジャーであり、賞賛に値する人です。

 あなたも何かのチャレンジャーですか。あなたのチャレンジ精神に、大きな拍手を贈ります。


2001年4月6日(金)

● 善玉ストレス、悪玉ストレス 

 今日は、ある企業の新入社員研修会の講師をしました。テーマは、ストレス。初めて実社会へ出て、今まで味わったことのないようなストレスを経験することもあるんでしょうね。

 大切なのは、ストレスがたまってきたら、それを自覚して、上手に発散する方法を各自が学ぶことです。

 しかし、ストレスがいつも悪いわけではありません。適度な緊張感って、いいものですよね。人間には適度なストレスが必要です。

 困難があること自体は不幸なことではありません。それどころか、あとから振り返ると、困難に立ち向かいチャレンジしていたときって、充実感や幸福感を感じるほどです。

 目標に向かって進んでいるとき、人はストレスに強くなります。人からやらされているのではない、金のためだけではない、やりがいが持てるような目標を、それぞれが持ちたいものです。

(「適度なストレス」っていうのは、人によって違うんですよね。ストレスに強い上司が、このくらい大丈夫だろうと思って、ストレスの弱い新部下ににプレッシャーを与えすぎてしまうと、部下がすっかり参ってしまうこともよくあります。人が自分と同じとは限りません。)


2001年4月4日(水)

● チーズはどこへきえた?

 迷路の中に住むネズミと小人。大好きなチーズもあって、幸せに暮らしていました。ところがある日、大切なチーズが消えてしまったのです。さて、ネズミと小人は……。

 ベストセラー「チーズはどこへ消えた?」(扶桑社)のお話です。チーズとは、あなたにとって大切なもの。仕事とか、お金とか、恋人とか。それがある日消えてしまう。あなたもこんな体験はありませんか。

 この本、ジャンルとしては、ビジネス書のようですね。表紙の絵も、くたびれた中年男性のさびしい後姿といったところ。

 変化の激しい現代社会で、リストラにあったり、部署変えがあったり。すっかり落ち込んでしまう人もいるでしょう。

 でも、「チーズはどこへ消えたか」「なぜ消えたか」などと考えすぎるなと、本書はいいたいようです。そうではなくて、新しいチーズを探そう。

 「変化」はそんなに怖いものではない。私たちは、現実の変化そのものよりも、変化を恐れ、不安がる自分自身の心のために悩んでいるのかもしれません。



2001年4月3日(火)
● 第2希望、第3希望 

 人生なかなか思うようにはいかないものです。第一希望のとおりにはならなくて、たいていは第2希望か第3ん希望。すべり止め(あんまり好きな言葉じゃないけど)ということもあるでしょう。

 でも、第2希望だろうと、第3希望だろうと、あなたが選んだ道です。就職しないことも、進学しないこともできたはずです。私たちは奴隷でもないし、そうしなければ死んでしまうというわけでもないからです。

 第1希望ではなくても、それが自分で選んだ道なのですから、前向きに行きましょうよ。

 ほんとにいやなら、やめればいいんですからね。それでも、あなたがやめずに今のところにいるというのなら、それがあなたの選んだ道です。

 人間の心の健康にとって「自己決定」というのが、とても大切です。それは、何でも思い通りにするということではなく、100パーセント自分で決めたことであれ、不可抗力や運に左右されたことであれ、いずれにしても、自己決定「感」を持つことが大切なのです。

 自分の職場、自分の学校、自分の家族、自分の町を、愛しましょう。

 


2001年4月2日(月)
● 出会いと始まり 

 「別れ」と「終わり」の3月がすぎ、「出会い」と「始まり」の4月です。希望に燃える人。不安のある人。いろいろでしょう。

 新しいことが始まるとき、誰でも不安があります。新しいことが始まるとき、だれでも希望があります。不安でいっぱいだと感じているあなた。たいていの場合、周囲の新入社員や新入生徒も同じことを感じています。

 ただ、不安を感じたとき、それをそのまま表現する人と、不安だからこそ平静を装ったり、不安だからこそ強がったりする違いがあるだけです。

 だれでも不安です。でも、ほんの少し希望のほうが大きいので、私たちは歩みだすことができるのです。不安を消す必要はありません。ほんの少しだけ、希望が上回ればいいのです。

 不安だと感じながら、でも新しい場所での生活をはじめているあなた。ほら、ちゃんと希望のほうが上回っていたからこそ、新生活をスタートさせることができたのです。

 心の問題の中には、心のことだけ考えていてもなかなか解決できないものがあります。「行動」が心の問題を解決することも多いのです。

 不安を感じながらも、出勤、登校する。不安を感じながらも、当たらし人と出会い、新しい人間関係をスタートさせる。不安を感じながらも、新しい仕事、あたらしい勉強を始めてみる。

 そうすると、ええ、みなさんがこれまでに何度か経験してきたように、しばらくすれば「はじめは緊張したなあ」なんて笑いながら仲間と話しているのです。来年の今ごろは、不安がっている新人を励ましていることでしょう。
 みなさまに、すばらしい出会いと始まりがありますように。


(今朝、出席しなくてもいい会議にのこのこ行ってしまい、失敗、失敗。今年度もいきなり最初からドジなスタートでしたあ!)


2001年3月28日(水)

● 助けを求めることは勇気の現れ 

 人に助けてもらうことって、みじめなことでしょうか。

 カウンセラーのところに相談に訪れる人のことを「クライエント」(クライアント)といいます。

 大会社の社長が、広告を作ってもらうために広告代理店を訪れると、この社長さんはクライアントですね。クライアントとは、何かの専門家の知識や技術を活用しようとしている人のことです。

 この社長さんはもちろんみじめでも、弱くもありませんよね。カウンセラーを活用しようとする人も同じです。カウンセラーのところへ行こうという強い意思、勇気、知識が必要です。

 相手がカウンセラーでなくても同様です。必要なときに誰かの必要な助けをきちんと求めることができるのは、弱さの現われではなく、勇気の現れです。

 誰かの助けを求めることは、目標達成のひとつの手段であり、「逃避」ではなく、前向きな「戦い」です。

 たとえ、泣きながら、ぼろぼろになった心で助けを求めたとしてもです。助けを求めることは、問題を何とかしようという、あなたの心の健康で強い部分の現われなのです。

 辛いこと、苦しいことを人に話すのって、勇気がいりますものね。
 




2001年3月27日(火)

● みんなに支えられて 

 スクールカウンセラーとしての勤務校が、4月から変わります。昨日、これまでの学校の離任式に参加しました。

 異動する教職員の入場。生徒たち全員が拍手で迎え入れます。

離任のあいさつでは、こんな話をしました。

 ちょっと、ドキドキしましたよ。拍手で包まれて、なんだか胸が熱くなり、力をもらった気がしました。

 でもこれって、私が特別な人間だからしてもらったのではなくて、同じ学校の仲間に対して、みんながしてくれたことです。

 クラスの中には、人気者もいれば、そうでない人もいるでしょう。でも、だれかが活躍したり、逆にとても悲しく辛い思いをしているとき、学校のみんなはきっと同じ仲間として支えてくれることでしょう。

 みんなはそういうことができる人間だと、私は信じています。

 でも、とても辛いとき、その現実が見えなくなって、誰も自分を助けてくれないと思い込んでしまいます。でも、そんなことないよ。悩んでいるのは君だけではないし、話を聞いてくれる人もきっといます。

最後にみんなに贈る言葉。

 「誰かに助けを求めることは、弱さの現われではなく、君の勇気の現れです」



2001年3月2日(金)

● 私たちにとって病気より悪いのは、偏見だ 

 病気って、何となくカッコ悪い病気と、カッコイイ病気があるんですよね。昔だと、青年芸術家が結核になってせき込んでいるなんて、何となく絵になる。

 「巨人の星」に出てきた主人公の恋人はたしか「骨肉種」っていう病気で死にます。桜貝のようなきれいなピンク色の爪に、ぽつんと小さな黒い点。それが骨肉種の表れ。う〜ん、すてきだね。

 もちろん実際は、命に関る病気なんだから、カッコイイなんてことはありません。でも、私がガンになったらきっとみんな同情してくれるでしょうが、もしも精神病やエイズになったら、同じような温かい態度で接してもらえるでしょうか。

(友達で肺結核でしばらく入院した人がいますが、あまり病名を人に話したくないといっていました。移る病気だから嫌がられるというのです。)

 今回のタイトルのは、今日の天声人語の中の一節です。ハンセン病(らい病)の患者さんの言葉です。この病気の患者さんは、昔からとても辛い目に合ってきました。精神病もそうですが、人類が古代から知っている病気であり、強い偏見がずっと続いてきた病気です。

 エイズも、当初はすさまじい偏見の対象でしたが、莫大なお金と労力をかけた運動によって、ずいぶん改善されてきたように思います。

 とはいえ、数年前にある人から聞いた話。日本からアメリカにやって来てエイズに感染し、日本に帰るに帰れなくなってしまった女性達が大勢いるということです。彼女達は身体だけでなく、精神的にかなりまいっているようです。これが、ガンや白血病ならすぐに日本に帰ってこられるでしょうに。

 しかし、やっぱりエイズへの社会的偏見は劇的に変化しました。これだけの労力を注げば、偏見は減るのでしょうか。だとしたら、エイズだけでなく精神障害にも、他の偏見に満ちた病気にも、ぜひ労力をかけて欲しいものです。

(エイズは登場してすぐに偏見への対策がとられたので、効果があったのかもしれません。)

 患者さんも、家族も、病気で苦しみ、そしてそれ以上に、偏見に苦しめられています。

*偏見:あるグループに属しているというだけで、その人に対して持ってしまうマイナスのイメージ。


2001年2月22日(木)

● 心の癒しと正当な怒りと 

 ヒロシマ、ナガサキの原爆資料館に行ったことはおありですか。どちらも大変素晴らしい、りっぱな資料館です。しかし、そこには「落ちてきた」原爆の悲惨さしか表されていないように感じました。実際は、自然に落ちてきたのではなく、アメリカ軍によって「落とされた」のです。

(悪いのは、そんな無差別大量殺人:ホロコーストを行なったアメリカなのか、それとも天皇制を中心とした国体の維持にこだわって終戦を遅らせた日本なのかといった問題は別問題として)

 一方、オキナワの戦争資料館では、はっきりと、アメリカ軍にやられた、日本軍にやられたということが伝わってきました。(資料の中に、「日本軍による島民の虐殺が行われたところ」なんていうのもありましたからね。)

(そういう資料館のあり方に肯定的な人と懐疑的な人はいるようです。また、最近新しい資料館ができました。ある市民運動家は、新しい資料館の考えに反対して、今まで展示されてきた自分の資料を撤去しました。私も実際に触れましたが、それは兵士の水筒で、今も当時のままの水が入っていて、手に取ってふってみると、心に迫ってくるような水音が出る、すばらしい展示物でした。)

 怒りや攻撃心は、それ自体が悪いことではありません。正当な怒りや攻撃心が、社会を良くしていくでしょうし、個人の生きがいになることもあるでしょう。

 ただ、社会的には正しい怒りや攻撃心が、いつも本人の心の癒しにはプラスになるわけではないとも思います。

 潜水艦によるえひめ丸の事故は、日米で大きな広がりを見せています。えひめ丸は自然に沈んだのではなく、潜水艦によって沈められました。

 事故後の報道によれば、アメリカ軍のやり方、日本政府の対応の仕方、それぞれに大きな問題があったようです。事実の解明と、それにもとずく適切な処置は、心の癒しにとっても必要不可欠です。

(それだけで癒されるわけではありませんが。たとえば、殺人犯が逮捕され死刑になったからといって、心が癒されるわけではありません。)

 日米の問題点が一つ見つかるたびに、行方不明者のご家族は、どれほど心を痛めることでしょう。怒り、悲しみ、悔しさが、わき上がってくるでしょう。

 こんなとき、感情を感情を表現することは、心の癒しのためにも大切です。気持ちを表現し、政府や社会に訴えるために、マスコミも協力するとしたら、それはとてもよいことです。

 しかし、もしもご家族がマスコミにもみくちゃにされながら、人々が期待しているような「怒りのコメント」を提供し続けなければならないとしたら、それは心の大きな重荷となることでしょう。

 昨日の報道によれば、ご家族は一時全員帰国されるそうです。森首相に会うことを希望していらっしゃいます。一昨日の報道によれば、「家族の疲労はピークに達している」そうです。

 一般論であり、理想論かもしれませんが。 何かの被害にあわれた方やご家族が、ゆっくりと心を癒すことができ、そのうえで、激しい感情が昇華され社会の改善にも協力できれば、社会にとってもご本人にとっても、素晴らしいことだと思います。

 銃で子どもを殺された人が銃規制運動に参加したり。
 カルト宗教を脱会した人がマインドコントロールの問題にかかわったり。
 子どもを殺人犯に殺された人と、子どもが死刑にされた人が協力しあって、心の癒しとともに死刑反対の社会運動を行なったり(アメリカの例)。

 ただし、すべての人にそんなことを期待してはいけないと思います。どんな行動をするかはその人の自由ですし、大きな犠牲も伴うのですから。

参考:「じぶん更新日記2.14
お互い更新日記」2.19
(当ページ2.19をご紹介いただきました。感謝!)


2001年2月19日(月)

● がんばれ、そして、奇跡の生還......

 宇和島水産高校えひめ丸のニュースが続いています。関係者の皆さまの悲しみ、苦しみは、どれほど大きいことでしょう。当サイトの掲示板にも、こころのケアを訴えるご意見が来ています。

 さて、一時閉鎖されていた宇和島水産高校の掲示板が復活しています。「"奇跡の生還"のニュース」を待ち望む声もよせられています。そうですね。もし、行方不明者が無事に見つかれば、こんなに良いことはありません。あきらめていた人の奇跡の生還は、たしかにありますからね。

 以前、私の知り合いのご家族が海難事故に遭われました。行方不明になって、ずいぶんたってから、ある人が「どこかの無人島にでも無事に流れ着いていてくれていたら......」と語っていました。そんなふうに思えるその方は、とても優しい心をお持ちなのだと思います。

 しかし、現実的には、まったく考えられないことでした。1年後、葬儀が行われました。その後、死亡認定もなされています。ご遺体は今も発見されないままです。

 家族の死は、残されたものにとって大きな痛手です。突然の死は、心の準備ができていなかっただけに、なおさら大きなショックを与えます。加害者が存在するような事故や事件であれば、心の傷はいっそう深くなるでしょう。

 時には、周囲からの心無い言葉で傷つくこともあります。善意の言葉でさえ、「がんばれ」と励まされることでかえって心が重くなることすらあります。

 それでも、残された人は生きてきます。死をしっかり受け止め、深い悲しみを味わい、しかしそれを乗り越えていきます。もちろん、長い時間はかかるでしょうが。

 死亡の状況がたとえ辛い状況でも、たいていの場合はその状況が明らかにされたほうが、ご遺族の心の癒しにはプラスです。

 宇和島水産高校の関係者の皆さまには、何も申し上げる言葉もないほどです。ただ、事実の解明と、みなさんのご希望がかなうことを願うばかりです。


2001年2月15日(木)

● しあわせな子育て 

 子どもを育てるときに、気をつけなくてはならないことはいっぱいあります。特にまだ赤ちゃんの時には、お母さんは(お父さんも)大変。

 まだまだとっても小さくて、とっても弱いんですから。悩みや心配はつきません。育児につて学ぶべきこと、練習すべきことはいっぱいあります。

 もちろんその一つひとつは大切なことです。でも、一番大切なことは、幸せな子育てをすることです。子どもを育てることに幸福感をもつことです。親が幸せな気持ちで子に接する。これが、最大の子育てのポイントです。

 一生懸命離乳食を作ったり、体操をさせたり。とてもいいことです。でも、それで疲れ果てたり、十分にできないからといって自分を責めたりしたら、逆効果です。

 そのくらいなら、細かい部分は適当に手を抜いてでも、ゆったりとした気持ちで子どもに接するほうが、ずっと意味があります。

 子どものためにも、あなたのためにも、家族みんなのためにも、あなたが幸せでいて下さい。


いまご覧のDAY by DAYの表紙のページに、最近の文章を載せます。
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