沿革

女子教育の胎動と学園の幕開け

新潟青陵学園の幕開けは、明治の女流歌人であり、明治天皇の第6皇女常宮内親王、第7皇女周宮内親王御用掛を拝命し、両内親王の皇女教育をも担われた教育者下田歌子女史(すぐれた歌才を皇后に賞(め)でられて「歌子」という名を賜る。)が、当時上流婦人に偏っていた婦人団体の組織を大衆に及ぼして全国的な組織とすることを目的に帝国婦人協会を設立(明治31年)したことに始まる。また、その目的を達成するための事業として実践女学校および女子工芸学校の設置を掲げていた。

歌子女史の強い影響を受けて逸速く発足した新潟青陵学園は、明治33年4月に裁縫伝習所として呱々の声を挙げて以来、ここに星霜100余年という歴史を刻もうとしている。この間に学園の名称は、女子工芸学校から新潟青陵学園に変わり、現在では大学院、大学、短期大学、高等学校、中学校(昭和56年に廃止)、幼稚園を擁する学園となり、着実にその発展を続けている。

しかしながら、星霜100余年という時間的な経過に併せて学園の草創期の文献も資料も皆無に等しく学園誕生の幕開け時の様子を知るすべもない状態であった。ところが下田歌子先生伝(故下田校長先生伝記編纂所、昭和18年)の第6節「遊説」に学園誕生の様子が、詳しく記述されていたので、ここにその内容を抜粋し明らかにすることとした。また、この歌子伝の編修の添え書きに、資料収集に2年、編纂に6年を要したと記されている。この歴史的な貴重本を後生に残された先人の労苦に敬意を表さざるを得ない。

新潟青陵学園の誕生の経緯をあますところなく記している第6節「遊説」を説き明かす前に、帝国婦人協会教育門所轄学校総則を基にした組織の概要と総則の内容を次に記すこととしたい。

実践女学校
実践女学校は本邦固有の女徳を啓発し日進の学理を応用し勉めて現今の社会に適応すべき実学を教授し賢母良妻を養成する所とす孤独貧困なる女子を教育して之に自活の道を授けんが為に本校は附属慈善女学校を置く
女子工芸学校
女子工芸学校は女子に適当なる工芸を授け併せて修身斎家に必要なる実学を修めしめ能く自営の道を立つるに足るべき教育を施す所とす
篤実忠誠なる下婢を養成せんため本校は附属下婢養成所を置く

如上の帝国婦人協会教育門所轄学校総則は、そのまま各学校の学則第1章通則、第2条の設置の目的に引用し規定している。しかも、第1条には何れの学校も「本校は帝国婦人協会の所轄とす」と記載して帝国婦人協会がその設置者であることを明確に規定している。また、慈善女学校および下婢養成所の位置付けについては、慈善女学校の学則に「本校は実践女学校の附属とす(第1章第1条)」、下婢養成所の学則に「下婢養成所は女子工芸学校の附属とす(第1条)」と規定している。帝国婦人協会の学校制度の概要は如上のとおりであるが、協会設立の理念がどのように全国に波及していったかを、歌子伝は次のように記している。

『帝国婦人協会において協会設立の理想にひたすら精進しようという婦人の団体が全国に一つでも多く出現することを期待して、帝国婦人協会支会規則を制定しこれを発表した。この発表が、果然、全国的に異常なる反響を惹起して、或いは遠く、或いは近く、先生の遊説を待つ特志者の集団が出現するようになった。請いに応じて、協会設立の翌年(明治32年7月)に全国遊説を始めることになり、協会理事の松本荻江子女史と掌事の松本栄子女史が同行されている。』

最初の遊説の振出しは、日光の御用邸(さる高貴の御方をお見舞されるため御用邸を訪れていた。)を7月10日に出発されて、宇都宮で車を換えて小山駅へ、信越線に乗り換えて午後7時に前橋駅到着(高崎に宿泊)、翌朝に高崎を出発、上田(婦人談話会主催の会で講演)と長野に向かわれている。

新潟への遊説の出発日は明確ではないが、「香雪叢書」第1巻・信越紀行の一節よりと引用して次のような要旨を記述している。

『7月27日、長岡2番発の汽車にて新潟に向かう。正午許り新潟に達す。停車場には勝間田知事が夫人をはじめ、人々あまた出で迎えらる。(鍵富三作家に宿泊)、翌28日は尋常師範学校で女子部の生徒達と談話。翌29日は行形亭での婦人茶話会で談話。同所にて知事および知事夫人と午餐。午後2時過ぐる頃、尋常師範学校で市内有志家たちに女子教育の事どもを談話す。夜は人々より需められたる書き物どもす。』

下田歌子女史が全国遊説を始められた明治32年は一県に一校の高等女学校設置を定めた高等女学校令が公布(2月)された画期的な年でもあった。また、翌明治33年5月に新潟県高等女学校(現、新潟県立新潟中央高等学校)が開校している。歌子女史の全国遊説は、この後、海を渡り北海道の土を踏み、明治33年8月に歌子女史は再び、新潟を経て長野への北越行脚に旅立たれている。その前年からの経緯を歌子伝は、次のように伝えている。

『やがてこの北越に、二つの帝国婦人協会支会が結成されて、下田先生の主義と方針を体して、着々と諸種の事業を進めて行った。その一つは柏崎の北越支会、──(中略)──、まづ事業の第一着手として、本部の計画と同じ附属女子工芸学校(現、新潟県立柏崎常盤高等学校)を設立し、翌33年2月、華々しく発会式を挙行した。その第二は新潟市の支会、この地はすでに前記の紀行にも見えた、県知事夫人勝間田千代子女史があって、まず婦人慈善会を組織、大いに各般の社会事業に着手していた所へ、たまたま下田先生の遊説を得て気勢さらに昂り、附属裁縫伝習所(のちに女子工芸学校と改称)の開設をもって、晴れて帝国婦人協会新潟支会の名乗りをあげた。──(中略)──、同じく33年4月3日、芽出度き神武天皇祭当日を卜し、市の眞浄寺に於いて盛んなる発会式を挙行、集まるもの百数十名、廣瀬女子師範学校長の賛助演説などがあって、前途の多望、期して待つべきものがあった。

この発会式に対し、当然下田先生も招待を受けたのであるが、他に重要なる所用があって出席なりがたく、先生は電報をもって「いちはやく根ざしをわけし姫小松ここより千代の陰はなすらむ」の一首をその祝辞に代えられた。かくしてその年の8月、今度は会の掌事清藤秋子女史ほか1名を伴い、先生再度の北越行脚に旅立たれたのであったが、3日東京を発して同12日夜帰京されるまで、柏崎、新潟の両支会巡視のほかに、越路に於いても新発田、水原にて講演され、帰路長野でも-(中略)-。

新潟に着したのは8月8日のこと、駅頭には支会長夫人以下、附属女子工芸学校生徒70余名が、すでに整列して先生を待っていた。しかも出迎えた一同の服装は、支会の役員は何れも綿衣の紋附、学校生徒が一斉に会の規定する制服の授業衣を纏(まとう)ていたのには、先生も喜悦のあまり思わずも感涙を催されたという。果たしてその折りの先生の歌日記「越路のつと」中にも、この時の感激が「新潟支会に臨みける時、婦人たちが衣服の質素なるを見て、心に打ち思ふことを」と前おきされて「人みな心の錦いろに出でてかざらぬのうるはしきかな」の一首となって残っている。

かくて翌9日は、午前10時より附属の工芸学校にて講演、終わって生徒の制作品縦覧、なかんづく編物の精巧さを激賞され、午後1時より県会議事堂にて、「女子教育将来の大方針」に就いて講演2時間余、特に女子が先ず一個の職業を修得して、人間として独立の資格を持たねばならぬといふ、先生年来の主張より説き起こして、折柄の紛乱、収拾の途なき隣邦支那の現状にも説き及んで、警抜峻烈、聴衆は樓上樓下に満ち、片言隻句も聞き漏らさじと傾聴したのであった。明治33年は、時に下田先生47歳、その頃の卓犖たる風貌の眼前に躍動する思いがする。』

歌子女史は、皇女のご教育掛拝命に先がけて欧米の学校教育、家庭教育の諸事情をも視察(明治26年9月~28年8月)している。欧米先進国の男女共生の教育制度を視察した歌子女史は、わが国の教育、即ち女子教育との落差の大きさを痛感されたものと思われる。また、歌子女史のいたたまらない心境が、「女子教育将来の大方針」という大演説になったものと思われる。聴衆は樓上樓下に満ち、片言隻句も聞き漏らさじと傾聴した講演の内容は今では知る由もないが、帝国婦人協会の設立趣意書に当たる「帝国婦人協会主旨附規則」に女子教育将来の大方針を帝国婦人協会主唱謹述として切々と訴えている。

なお、本学園では下田歌子女史を創設者に、帝国婦人協会新潟支会発足時の千頭清臣新潟県知事(明治33年1月~9月)夫人千頭トク女史を設立代表者にそれぞれ定めて後世に伝えているが、実際には前任の勝間田稔新潟県知事(明治30年4月~33年1月)令夫人の勝間田千代子女史が、女子教育の重要性を唱えた歌子女史の方針に共鳴し、歌子女史を積極的に新潟に招聘している。「香雪叢書」の記述がそれを物語っていると云っても過言でない。さらに、千代子女史は婦人慈善会を率先して組織し附属裁縫伝習所開設の基盤をつくられているが、県知事の官界引退に伴って新潟を去られている。勝間田千代子女史もまた学園創設者の一員に加えて後世にその名を伝えて行くことが必要である。

参考:帝国婦人協会教育門所轄学校規則に定める授業科目

実践女学校

学科課程
  • 修身…女徳の要旨
  • 読書…国文(購読・作文)、漢文(購読・作文)
  • 地理歴史…本邦地理、外国地理、本邦歴史、外国歴史
  • 算術…筆算・珠算(加減乗除、分数、少数、比例、百分率、幾何大要)
  • 理科…植物、動物、砿物、物理、化学、生理衛生
  • 家政…礼式、洗濯、衣食住、家政簿記、家内衛生、割烹、挿華、育児
  • 裁縫…裁縫編物、裁縫
  • 図画…自在画、実物写生
  • 習字…楷書、行書、仮名
  • 外国語…読方、訳解、会話、習字、書取、文法、作文、翻訳
  • 音楽…唱歌、楽器用法
  • 体操…普通体操

女子工芸学校

学科課程
  • 修身…女徳の要旨
  • 読書…読方、作文
  • 算術…筆算加減、珠算加減、加減乗除、分数少数、諸等数、比例
  • 理科…職業上必要なる理科の大意
  • 地理歴史…本邦地理大要、本邦歴史大要
  • 家事…衣食住大要、家事衛生大要、家計簿記大要、育児大要
  • 習字…楷書、かな、行書、仮名
術科課程
  • 裁縫…小裁、中裁、本裁、衣服、襯衣、下袴、袴、羽織、被布、帯、外套、比翼類
  • 編物…錘針編、鈎針編
  • 刺繍…平縫、玉縫、刺縫、周縫、金糸縫、平金縫、すが縫、星縫、すがら縫、釜糸縫、友染縫、両面縫等
  • 造花…紙製、寒冷紗製、絹製其他挿花…生華、立華、盛華
  • 図画…水墨画、写生、模様画、陶器画
  • 押絵…花卉、蟲鳥類、人物、獣類
  • 速記…速記法、実地訓練
  • 看護法…生理衛生の大意、看護法、実地訓練
  • 割烹…講述、実地履修
  • 写真術…講述、実地履修

慈善女学校

学科課程
  • 修身…女子の心得
  • 読書…読方、作文
  • 算術…加減乗除
  • 地理歴史…本邦地理、本邦歴史
  • 習字…楷書、行書、仮名

下婢養成所

学科課程
  • 修身…女子の心得及び人に事ふる道読書…読方、作文(日常的なもの)
  • 算術…簡易なる加減乗除
  • 習字…行書、仮名(日常必要の文字)
  • 洒掃応対進退…講述、実地練習
  • 料理…総菜、献立、割烹
  • 裁縫…運針及び解き物継ぎ物等
  • 洗濯…洗濯、張りもの

参考:帝国婦人協会主旨附規則「第2章」に定める事業

第五条 本会ハ前条ノ目的ヲ達センガ為ニ左ノ事業ヲ漸次実施ス
一 教育門
女子教育研究会 実践女学校 同上附属慈善女学校
女子工芸学校 同上下婢養成所 女子商業学校
二 文学門
女子文学研究会 女子文学出版所
三 工芸門
女子工芸研究会 女工養成所
四 商業門
女子商業研究会 勤工場
五 救恤門
女子救助会 慈善女子病院 看護婦養成所

参考:帝国婦人協会主旨附規則「第6章」に定める職制

第十六条 本会ニ左ノ職制ヲ置ク
会長1名
会務ヲ総理ス
副 会 長1名
会長ヲ補佐シ会長事故アルキハ之ニ代ル
顧問5名
但5名中1名ハ特別ニ財務顧問トス会長ノ顧問トナ
リ会務ヲ賛助ス
評 議 員25名
会長ノ諮問ニ応ジ会務ヲ審議ス
財務主幹
財務一切ヲ監理ス
理事5名
会長ノ旨ヲ承ケ各門ノ部長トシテ常務ヲ司ル
掌事 若干名
会長ノ旨ヲ承ケ会旨ノ普及ヲ勧メ会員ノ募集ニ従事ス
書記 若干名
会長理事ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス

参考:帝国婦人協会主旨附規則中の「帝国婦人協会支会規則」に定める学校設置認可規則

第五条 支会ニ於テ学校ヲ設置セントスルトキハ左ノ事項ヲ具シ本会ノ承認ヲ受クベシ
一 学校ノ種類位置
二 教育ノ目的
三 学科ノ程度時間表
四 校長教員ノ氏名資格
五 生徒ノ定員
六 学校ノ財務

  • 注記1:実践女学校附属慈善女学校および女子工芸学校附属下婢養成所は、結果的にうまく運用されなかった。
  • 注記2:帝国婦人協会教育門所轄学校規則に定める授業科目は、一つの標準を示したものと思われる。明治35年当時の新潟女子工芸学校の学則で定める授業科目は次のとおりである。
    授業科目
    • 修身…人倫道徳の要旨、作法
    • 裁縫…小裁、中裁、本裁、衣服、袴、羽織、被布、帯、外套、比翼、上下、夜具類、シャツ、ヅボン下、ミーシン用法
    • 国語…講読、作文、習字
    • 算術…整数、少数、分数の加減乗除(珠算加減乗除)、比例、百分算
    • 家事…(家政)衣食住、看護法、家事簿記、育児法
    • 体操…普通体操、遊戯
    • 音楽…単音唱歌、複音唱歌
    • 編物…錘針編、鈎針編
    • 造花…紙製、寒冷紗製、絹製其他
    • 刺繍…平縫、玉縫、刺縫、周縫、金糸縫、平金縫、すが縫、星縫、すが縫、釜糸縫、反染縫、両面縫
    • 選択科目(割烹、挿花)
  • 注記3:歌子女史の新潟での記録の拠り所となった「香雪叢書」とは、歌子女史のことをしたためた記録書であること。昭和9年に全5巻完成する。時に歌子女史81歳(没2年前)。
  • 注記4:「帝国婦人協会主旨附規則」および「帝国婦人協会教育門所轄学校規則」は、本学園短期大学第5代学長須永梅尾先生(歴史学者)が東京での古書展示会で偶然発掘したもので実践女子学園にも現存しない極めて貴重な資料である。
  • 注記5:「女子教育の必要性を説く歌子の言葉に感激した新潟県知事夫人千頭トク、弁護士夫人中野悦子等が奔走し、帝国婦人協会新潟支会が設立される。」と伝えられている知事夫人千頭トク女史が、新潟で下田歌子女史と始めて接せられたのは帝国婦人協会新潟支会が設立された3箇月後のことであった。正しくは知事夫人勝間田千代子女史とその史実を改めなければならない。

(執筆:大谷一男)